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市勢の沿革

印刷ページ表示 更新日:2018年4月1日更新

市勢の沿革

 戦国時代には大友氏の支配下にあり、大友宗麟が津久見を最後の居住地と位置づけ、1587年に津久見で逝去している。
 江戸時代には、北半分が臼杵藩、南半分が佐伯藩と市域が分断されていた。
 江戸時代から明治時代へかけ、みかん栽培や石灰づくりが進展したが、特に、大正5年の日豊本線臼杵・佐伯間開通を契機に、みかんの栽培面積が拡大するとともに近代的なセメントエ業が発達した。また、保戸島のまぐろ延縄漁業も大正から昭和にかけて日本列島全域から南洋へ進出していった。こうして、現在の津久見市の産業的な骨格ができあがった。
 行政的には、津久見市の母体となった津久見町は昭和8年に旧津久見町と下浦村と青江村が合併して誕生した。その後、この津久見町と半島部の日代村、四浦村及び離島の保戸島村が合併して、昭和26年に津久見市が誕生した。