つくみんの『かくれ家』

扇子踊りの歴史

~受け継がれる伝統の舞踊り~

「扇子踊り」は、もともと津久見市内に伝わる供養踊りの一つといわれています。

『扇子踊り由来記』によると、今から約四百五十年の昔、津久見は大友氏の支配下にあり、当時警固のため駐屯した武士たちが、隣国に対する警戒任務精励のかたわら、戦没した勇士・農民の供養のために地区民とはかり供養踊りをはじめたとあります。ここに京舞の流れを汲む扇子踊りが誕生したのです。また、文化四年(一八〇七年)の春、伊能忠敬が測量のため今の松崎の屋敷に宿泊した際、地区民手製の扇子をもってこれを踊り旅情を慰めたと伝えられています。

史実については疑問視される向きもありますが、伝承として語り継がれてきたこともまた事実なのです。

 しかし、「扇子踊り」が津久見の代表的郷土芸能に成長したのは、踊りの普及・指導に当たった扇子踊り保存会の功績が大きかったことはいうまでもありません。

話は大正の末のころにさかのぼります。当時、警固屋地区青年団員に「扇子踊り」が三度の飯より好きという同級生仲間の三青年がいました。踊りの名手左脇日出登氏、太鼓打ちの名人小野松次郎氏、それに音頭取りにかけては近郷随一の大野文夫氏。三人の夢は「扇子踊り」を津久見自慢の踊りに育て上げることでした。しかし、扇子踊りは手踊りと違って一般向きではなく、当時は広く普及していませんでした。そのためうちわを持って踊る人や、手踊りの人もいました。

この状態に憂慮した左脇氏ら三人を中心とする人たちが、大正末期に愛扇会(現在の扇子踊り保存会)を結成し、津久見での扇子踊りの普及に努めていったのです。踊りの普及指導に情熱を燃やす三人のスクラムは固く、大野氏が十八番の「白滝」や「那須与市」を口説けば、小野氏が太鼓をたたいてこれをはやし、左脇氏は扇子の操り方や踊りの指導を積極的に行っていったことで、「扇手踊り」の輪は、だんだんと他地区にまで広がって行きました。

そのうち徳補地区の小野喜一郎氏、津久見地区の大杉松吉氏らも仲間に加わったことで、昭和三十一年、「愛扇会」から全市的な規模の「扇子踊り保存会」へと発展していきました。さらに昭和三十九年、津久見市主催の盆踊り大会を開催するようになってからは、この「扇子踊り」は津久見を代表する郷土芸能へと成長を遂げていったのです。

その後は昭和五十年にオーストラリアで行われた国際民族舞踊大会に日本代表として出場、平成十年には韓国慶州でおこなわれた世界文化博覧会に出場、さらには平成十四年に行われた日韓ワールドカップサッカーの大分会場で、試合前のアトラクションとして踊りを披露、そして平成二十年、高知の「よさこい祭り」の前夜祭にゲストとして招かれ、同年の大分国体にも開会式前のアトラクションとして踊りを披露するなど、今や扇子踊りは津久見どころか大分を代表する郷土芸能にまで育っていきました。

 大正の末に警固屋地区の三青年が想い描いた夢は、約百年後、津久見から大分、さらには世界へと大きく羽ばたいていっているのです。

(平成二十年、高知の「よさこい祭り」前夜祭において、踊りを披露)